高木兼寛略歴(年齢は数え年)

嘉永 2年 1849年 9月15日、穆佐郷士、高木喜助の長男として、薩摩藩日向国諸県郡穆佐郷小山田村(現在の宮崎市高岡町穆佐)に生まれる。(1歳)
安政3年 1856年  中村敬助について四書五経を学ぶ。(8歳)
安政5年 1858年  阿万孫兵衛について示現流の剣術を習う。(10歳)
文久元年 1861年  医学を志す(13歳)
慶応2年 1866年 鹿児島に行き、石神良策について医学を修業する。(18歳)
明治元年 1868年  鹿児島藩九番隊付き医師として、東北征討軍に従軍する。(20歳)
明治3年

1870年

 鹿児島医学校(鹿児島藩立開成学校)で、英医ウィリアム・ウィリスについて、医学及び英語を学ぶ。(22歳)
明治5年 1872年   4月15日、海軍省九等出仕。6月、富子と結婚する。(24歳)
明治8年 1875年  イギリス留学を命ぜられ、ロンドンのセント・トーマス病院医学校に留学する。(27歳)
明治13年 1880年  11月、留学を終えて帰国する。12月、海軍中医監、東京海軍病院長に命ぜられる。(32歳)
明治14年 1881年 5月、成医会講習所(東京慈恵会医科大学前身)設立。所長となる。(33歳)
明治15年 1882年 6月、海軍軍医大監に任ぜられる。8月、有志共立東京病院(東京慈恵会病院の前身)を設立する。(34歳)
明治16年 1883年 11月、海軍将兵の脚気予防策として、兵食改善の要あるを明治天皇に奏上する。(35歳)
明治17年 1884年 2月~9月、練習船筑波での公開実験により脚気の原因が栄養欠陥であることを実証した。(36歳)
明治18年 1885年 4月、看護婦教育所(我が国初の看護学校)を設立。12月、海軍軍医総監に任ぜられる。(37歳)
明治20年 1887年 帝国生命保険会社(現在の朝日生命)の創設に参画する。(39歳)
明治21年 1888年 5月、我が国最初の医学博士の学位を授与される。(40歳)
明治25年 1892年 8月、貴族院議員に勅選される。(44歳)
明治32年 1899年 4月、宮崎神宮大造営計画に参画。幹事長となって推進する。(51歳)
明治38年 1905年 3月、華族に列せられ、男爵を賜う。(57歳)
明治39年 1906年 1月~7月、欧米旅行に出る。コロンビア大学、フィラデルフィア医科大学ほか各国各大学で講演する。(58歳)
大正元年 1912年 9月、国民体育奨励のための講演をする。(以後各地で国民衛生、精神修養について講演する。)(64歳)
大正9年 1920年 4月13日、逝去。(享年72歳)