故郷を愛し、穆佐の「穆」、母親の「園」から「穆園」と号した。

「穆園先生」として親しまれている由来である。


■穆佐に育った高木兼寛■

  県都宮崎市より西に約13Kmほどさかのぼると高岡町の中心市街地があります。そこから3Kmほど下った川の南側、穆佐が兼寛の生まれ故郷です。幼名を藤四郎といい8歳の頃には、同地方の学者、中村敬助について四書五経を学び、10歳になると漢学塾に通うかたわら、穆佐の年寄阿万孫兵衛について示現流の剣術を習いました。13歳の頃、穆佐の有識者黒木了輔医師の影響を受け、自分も医師になって世の中の役に立ちたいと考えるようになりました。そして、18歳の頃、初めて郷里を離れて鹿児島の蘭学医石神良策について医学の勉強を始めたのです。

 

■医学への道■

  慶応2年(1866年)鹿児島に出た兼寛は、石神良策のもとで蘭学の勉強を続け、明治元年(1868年)4月、20歳で東北征討軍に入り、6月には鹿児島藩九番隊付きとなって、会津若松に向かいました。このころ鹿児島藩の軍医は漢方医だったため外科の技術はほとんど知らず、負傷者が出ても手術は失敗の連続でした。しかし他藩の軍医はすでに西洋医学を採用しており、これを見た兼寛は、「鹿児島藩のためにも西洋医学を習得したい。」と決心し、藩立開成学校に入学するのでした。やがて、英国公使館付きだったウィリアム・ウィリスを教授として迎え、彼の外科手術に影響を受けた兼寛は、恩師石神良策の助力を得て、海軍省に入りイギリス留学を志すのでした。

■イギリス留学■

  明治5年(1872年)4月兼寛は、徴兵に応じて上京し、2ヶ月後に石神良策の媒酌のもと千葉県の士族、瀬脇寿人の長女富子と結婚しました。4ヶ月後には海軍中軍医に任命され海軍病院に勤務し、さらに3年後の明治8年(1875年)には待望のイギリス留学が決まり、妻や子を里にあずけ、横浜港よりロンドンに向けて旅立ったのは兼寛27歳の年でした。

 

■イギリス留学より帰国『病気を診ずして病人を診よ』■

 -成医会講習所(慈恵会医科大学の前身)の設立-

 イギリス留学を終えた兼寛は、明治13年(1880年)11月に帰国しました。ドイツ医学を採用した当時の日本医学会には、学理面が強調され、患者を研究対象とみる人間疎外の医風がありました。帰国後、東京海軍病院長に就任した兼寛は、直ちに同志の松山棟庵(福沢諭吉の弟子)と「成医会」を結成し、明治14年(1881年)5月には、東京慈恵会医科大学の前身となる「成医会講習所」を設立しました。これは、研究のために医学を修めるのではなく、実際に患者を治す能力のある医師を養成したいという兼寛の強い願いからでした。

 

―有志共立東京病院(東京慈恵会病院の前身)の設立―

【我が国初の私立施療病院】

 イギリス留学中、すぐれた施療病院を見てきた兼寛は、「病気に苦しむ人を救済する施設を作ることが社会の義務だ。人間が何より苦しいのは貧乏のうえに病気になることだ。これを救わねば社会の発展はありえない。どうしても施療病院を作らねばならない。」と考え、明治15年(1882年)、彼の考えに賛同する同志35人とともに「有志共立東京病院」(東京慈恵会病院の前身)を設立しました。やがてこの病院は国の認める病院となり、兼寛の長年の夢であった貧しい人たちのための病院が実現されることになるのです。また、有志共立東京病院の薬局経営を兼寛から任されたのは、資生堂薬局(現在の株式会社資生堂)でした。

 

―看護婦教育所の設立―

【我が国初の看護学校】

 当時の看護婦は、看護婦としての正式な教育を受けていませんでした。そのため兼寛は、イギリスのセント・トーマス病院内のフローレンス・ナイチンゲール女史の創設した看護婦養成所を見習い、アメリカ人リード女史の力を借りて、明治18年(1885年)4月有志共立東京病院内に看護婦教育所を設立しました。これが我が国初の看護学校の始まりです。看護婦教育所の設立には、「夫人慈善会」が行ったバサーの売上金があてられました。これはできて間もない鹿鳴館で開かれたバザーで、日本で初めて行われたものでした。

 このように、兼寛はイギリス留学から帰国後、短期間の中でおおくの偉業を成し遂げていきました。これは、「イギリスのすぐれた医療体系を早く日本にも作り上げたい」そして、「病人のための医学であって欲しい」という強い願いからでした。兼寛の残した「病気を診ずして病人を診よ」という言葉は、大変有名です。

 

■ビタミンの父 高木兼寛■

  明治時代、日本の海軍では軍艦乗組員の中に脚気患者が続出していました。海軍軍医だった兼寛は、この脚気絶滅に取り組みました。当時、脚気は細菌による伝染病と考えられていましたが、兼寛は、食事の栄養欠陥からおこると考え、「兵食改善」による脚気の予防法に取り組みました。そして、ようやく軍艦筑波の航海実験をすることになりました。さきに、軍艦龍驤(りゅうじょう)の航海で、乗組員の半数が脚気となり「病者多し、公開できぬ金送れ」という悲痛な電報が送られていたものが、兵食を改善した筑波から送られてきたのは、「病者一人もなし、安心あれ」というものでした。これによって、兼寛の予防法は認められたのでした。兼寛が確立した脚気予防法は、後のビタミン発見に大きく貢献したといわれています。南極地陸に「高木岬」という地名があります。これは、高木兼寛の名前から付けられたもので、一帯にはほかにも「エイクマン岬」「フンク氷河」「ホプキンス氷河」「マッカラム岬」など有名なビタミン学者の名前が付けられた地名があります。また、イギリスのビタミン学界の第一人者レスり・ハリスは、兼寛を世界の八大ビタミン学者として写真入りで紹介し、兼寛の業績を紹介しています。高木兼寛がビタミンの父と呼ばれるのは、このような理由からです。

 

■帝国生命会社(現在の朝日生命保険相互会社)創立に参画■

  あらゆる公共的な事業の中で、ただ一つ兼寛が関係した営利事業が、帝国生命保険会社の援助でした。兼寛が設立した日本初の施療病院、有志共立東京病院は、病気で苦しむ人を有志で力を合わせて救済しようというものでしたが、生命保険という制度も同様、人間の病気、老齢、死亡などによる経済的な困難を相互に協力して救済し合おうとするものだったからです。兼寛は、明治20年(1887年)に帝国生命保険会社の創立に参画し、翌年の明治21年(1888年)3月に帝国生命保険会社が創業しています。

 

■宮崎神宮の大造営■

  兼寛が郷土宮崎に残した偉業の一つが宮崎神宮の大造営です。これは、神武天皇御降誕大祭の祭典を行うことと同時に、当時の宮崎宮(現在の宮崎神宮)を大きな神殿に建て替えること、そして神武天皇御降誕の地である高原の狭野神社の神殿も改築しようとするものでした。兼寛は、この大造営に幹事長として就任し、明治31年(1898年)より全国から多額の寄付金を集め、明治40年(1907年)に完成しました。この時に行われた奉告祭が現在県下一の祭である神宮大祭の起源です。

 

■精神修行と医の心■

  医者として多くの人を診てきた兼寛は、晩年国民の体位が年々悪くなってきていることを知り、「国民の体位向上を図るのは医師たる者の本分だ」と考え、大正元年(1912年)頃から全国の学校を中心に保健衛生、精神修養に関する講演を行いました。その回数は実に1388回にもおよんだといわれています。また、兼寛は医学博士として日本古来の「禊(みそぎ)」の研究にも着手しました。兼寛の禊についての考え方は次のようなものでした。「禊は原人の祖としてのイザナギノミコトがお始めになったという歴史をもっているので、その子孫はこれをおろそかにするわけにはいかない。万一人間に害があるならば、たとえ祖神の創始によるものであってもその害を国民に知らせ、中止させなければならない。そのためにぜひ自分で実験して判断しなければならない。……(以下省略)」といい自ら禊に参加しています。